幸せって何だろう? ─ 当たり前にある奇跡に気づいた日

幸せってなんだろう ─ 当たり前の中にある、小さな奇跡に気づくまで

「幸せって、なんだろう?」

この言葉が、昔の私にはずっとわからなかったんです。
幸せとは、手に入れるもの。
勝ち取るもの。努力の先にある “ご褒美” のようなイメージを抱いていました。

「もっとこうだったらいいのに」
「なんで私はこうなんだろう」
そんなふうに、自分にないものばかりを見てはため息をつくことも多かった気がします。

でも、人生で2度目の挫折を経験した今、
私は少しずつ本当の「幸せ」というものの輪郭が見えてきたように思うのです。

 

一度目の挫折と、自分の未熟さ

最初の挫折を経験したのは、まだ私の心が未熟な頃でした。
そのときも「私は不幸だ」と思いましたし、周りの人に対してうまく感情を伝えられず、
自分の中にある苦しさを持て余していました。

「これが幸せ」「あれが不幸」なんて、自分で決めつけていたけれど、実は“幸せ”という言葉の本当の意味を、
私はまだ理解していなかったのだと思います。

ただ、自分の思い通りにいかない現実が「不幸」だと感じていただけで、自分の置かれている状況や、
すでに持っているものの価値には目が向いていませんでした。

 

2度目の挫折と、ふと蘇った記憶

つい最近、車に乗れない状況になったんです。
たったそれだけのことなのに、日常の動きがすべて止まったように感じました。

「こんなに不便なんだ」
「こんなに頼っていたんだ」

普段、当たり前のように車に乗って、行きたいところに行けていた生活。
でも、それが一時的にできなくなっただけで、私は不自由を感じ、苛立ちすら覚えました。

そのとき、なぜかふっと学生時代に観た映画『典子は今』のことを思い出したんです。

 

『典子は今』/ 両手のない彼女の姿

その映画に登場するのは、両手が生まれつきない女性でした。
彼女は、手の代わりに足を使って生活をしていて、字を書くのも、料理をするのも、すべて足でこなしていました。

学生だった私は、その姿に強い衝撃を受けました。
「どうしてこんなに前向きに生きられるの?」
「私だったら、心が折れてしまうかもしれない…」

でも同時に、彼女の一生懸命に生きる姿が、とても美しく、心に深く刻まれました。
どんなに不便でも、どんなに苦しくても、笑顔を忘れず、工夫を重ねながら生きているその姿に、
尊敬と感動が入り混じった感情を抱いたのを、今でも覚えています。

 

気づけなかった「当たり前」の中の幸せ

そして、今の私はどうだろうと思いました。
手も足もある。目も耳も正常に機能している。
それなのに、ほんの少しうまくいかないことがあるだけで、すぐに「つらい」「嫌だ」と思ってしまう。

私たちは、五体満足に生まれてきたことを「普通のこと」として受け止めて生きています。
でもそれは本当は、決して「普通」なんかじゃなくて、「奇跡」なんですよね。

手があるから、誰かの手を握ることができる。
足があるから、自分の意思でどこにでも行ける。
目があるから、美しい景色も、大切な人の笑顔も見ることができる。

そんな当たり前に見えることが、実はとても尊く、ありがたいことだったんだと、ようやく気づくことができました。

 

幸せは「得るもの」じゃなく「気づくもの」

昔の私は、幸せを“得るもの”だと思っていました。
でも今は、幸せって「気づくもの」なんじゃないかと思っています。

何も特別なことが起きなくても、
手が動くことに感謝できたり、
足でしっかりと立てることに感動できたり、
目が見えるというだけでうれしくなったり。

そんなふうに、日々の中の“当たり前”に感謝できるようになると、
「自分はすでに幸せの中にいる」と、心から感じることができるんです。

 

挫折が教えてくれた、本当の幸せ

人生の中で、つらいことも、苦しいこともあります。
何度も「もう無理かもしれない」と思う瞬間があって、
何もかもが嫌になってしまうことだってある。

でも、そんなときこそ、自分の中にある「小さな幸せ」に気づくチャンスなのかもしれません。

たとえ、今、苦しみの中にいても。
たとえ、何かを失ったと感じていても。

まだ自分の手は動いている。
まだ自分の足で歩ける。
まだ目は前を見ている。

それはすでに、十分に「幸せ」なのではないでしょうか。

 

今の私は、ようやくそのことに気づくことができました。
そして、これから先も、どんな状況であっても、「あるもの」に目を向けて生きていきたいと、心から思っています。

 

 

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