騙され続けた私が、怒りではなく「学びと感謝」を選んだ理由

 裏切りの経験を、人生の「力」に変えるということ 

あなたはこれまで、誰かに裏切られた経験がありますか?

信じていた人に、思いもよらないかたちで背かれたとき、

「怒り」や「恨み」以外の感情を持てたでしょうか?

もしかしたら今、心のどこかに整理しきれない思いを抱えている方もいるかもしれません。

今日は、私が約20年の信頼関係の中で体験した“裏切り”と、

そこから私がどのように立ち上がったのかをお話しさせてください。

怒りや恨みではなく、「学びと感謝」をもって前に進むこと。

その選択が、きっと誰かの希望になることを願っています。

 

約20年、信じ続けた人に騙されていたという現実

ある日突然、私は20年近く信じてきた人から裏切られていたことに気づきました。

それは本当に唐突で、現実を理解することさえできませんでした。

頭が真っ白になり、言葉を失い、何が本当で何が嘘だったのかも分からなくなる、

そんな体験をされた方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。

周囲の人たちは口を揃えて、こう言いました。

• 「なんで怒らないの?」
• 「恨まないなんておかしい」
• 「目を覚ましなさい」

そのどれもが“正論”なのかもしれません。

でも私は、怒ることも、恨むこともできませんでした。

信じた自分が未熟だった。

見る目がなかった。

だからこそ、相手を責めるよりも、私は自分を責めてしまったのです。

 

恨むより、私は「信じた時間」を大切にしたかった

「騙された」という事実は、もちろん大きなショックでした。

でもその中で、私は多くのことを経験し、学び、そして成長していたのです。

• 大切に思う気持ち
• 共に目指した夢
• 日々の積み重ね

それらはすべて、私の人生の一部であり、

その時間があったからこそ、今の私がいるのだと感じています。

周りからは「それって、愛情だったんだね」と言われることもあります。

でも、私自身にはその言葉がぴったり来るかどうか分かりません。

私はただ、「一緒に信じたことを最後までやり遂げたかった」だけなのです。

見返りや愛情が欲しかったわけではありません。

信じること、やり抜くこと。

それが私にできる精一杯の生き方でした。

 

なぜ「怒り」が正解のように扱われるのか

人に傷つけられたら「怒る」ことは自然です。

むしろ、怒りは正義のように語られる場面さえあります。

けれど、怒らない選択をした人に対して、「弱い」「おかしい」「洗脳されている」

そういったレッテルを貼られることがあるのは、正直苦しいものです。

怒ることだけが「強さ」ではない。

怒らないことにも、意思と覚悟が必要なのだということを、もっと知ってほしい。

私は今、はっきり言えます。

怒ることではなく、私は「学びと感謝」をもってこの経験に終止符を打ちたかった。

それが、私自身の再出発になると信じていたからです。

 

怒れないあなたへ | それでも、あなたは間違っていない

怒れない自分を責めていませんか?

信じた時間を否定したくなくて、苦しんでいませんか?

それでも「意味があった」と感じたい、そう思っていませんか?

そのすべてが、あなたの優しさであり、あなたの強さです。

• 怒らない選択は、逃げではありません。
• 恨まないことは、無関心ではありません。
• 優しくあることを、弱さだと誤解しないでください。

誰かを責めることよりも、自分の人生を丁寧に抱きしめることの方が、

よほど勇気のいることだと、私は知っています。

 

生き方は、自分が選ぶもの

「騙された」「裏切られた」確かにそうかもしれません。

でも私は、その中でどんな想いを持ち、どう生きたかを大切にしたい。

そしてその経験から、何を学び、どんな価値を見出せたか。

そのすべてを、これからの人生に活かしていくことが、私の選んだ道です。

誰かを責めることよりも、

自分の選んだ生き方を、誇りをもって肯定する。

その選択こそが、私が「傷ついた経験」と向き合った意味なのだと思っています。

 

最後に

人生には、思いがけず傷つくことがあります。

信じていた人からの裏切り。

長年かけて築いてきた関係の崩壊。

でもその出来事は、あなたの「価値」や「人間性」を奪うものではありません。

むしろ、そこから生まれる気づきや優しさこそが、

あなたをより深く、しなやかに成長させてくれる力になります。

怒りではなく、「学びと感謝」を選ぶ。

そんな生き方が、ここにあるのだと、私は信じています。

 

 

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