「なぜこの親のもとに生まれたのか?― 挫折を越えて気づいたこと」

私は小さい頃から、心の奥でよくこんなことを考えていました。

「なぜ、私はこの母と父のもとに生まれてきたのだろう?」

何か問題があったわけでもなく、日常は普通に過ぎていました。
けれど、どこか満たされないような思いが、子どもながらに心にあったのです。

そして大人になり、大きな挫折を経験したとき、
この問いはより強く、重く、私の中に響いてきました。

 

第一の挫折では、わからなかったこと

人生で初めてつまずいたとき、
「なぜこんな人生なのか」「なぜ私ばかり」
そんな想いが心を占めていました。

その時には、まだ答えは見つかりませんでした。
ただただ傷つき、悔しく、どうしようもない感情だけが心に残っていました。

 

第二の挫折―より深く、より大きな痛み

やがて、もっと大きな挫折が私を襲いました。
1回目とは比べものにならないほどの痛みと混乱。
心が裂けそうになりながら、それでもなんとか一歩一歩前に進みました。

その過程で、私は少しずつ「気づき」を手にするようになったのです。
それは、突然のひらめきというよりも、
何度も傷つきながら、ようやく滲み出てきた理解のようなものでした。

 

人の役に立ちたい ― その想いの根源

その気づきは、やがてこんな想いへと形を変えていきました。

「もしかしたら、この経験は、誰かの役に立てるかもしれない」

初めて、心からそう思えたとき、
自分の過去が少しずつ意味を持ち始めた気がしました。

 

それでもなお、わからないこと

ただひとつ、どうしてもまだわからないことがあります。

それは―
「なぜ、私はこの二人の親を選んで生まれてきたのだろう?」

他の親だったとしても、同じような人生を歩み、同じような気づきを得ることはできたのではないか?
そんなふうにも思うのです。

 

それでも「この親」だった意味

でも、きっと同じような経験をしても、同じ気持ちになるとは限らないのだと思います。

人生の出来事そのものよりも、
「それをどう受け止めるか」「どんな意味を見いだすか」
それこそが、その人だけの人生の色をつくるのではないでしょうか。

もしかしたら、私の親が私に与えてくれたのは「課題」だったのかもしれません。
でも、その課題のおかげで、私は深く考え、苦しみ、そして気づきに出会えました。

そう考えると、少しだけ、この親に生まれた意味が見えてくる気がします。

 

それでも、どうしても残る問い

でも、どれだけ気づきを得ても、
心の奥にはどうしても消えない疑問が残っていました。

「そもそも、私はこの親のもとに生まれなければ、こんなにつらい思いをしなくてもよかったんじゃないか?」

これは、本音です。

 

しなくてよかった経験?それとも、必要だった経験?

別の親のもとに生まれていたら、
もっと平穏で、もっと楽な人生を歩めたかもしれません。
もしかしたら、あの深い挫折もなかったかもしれません。

そう思うと、「この親でなければ…」という想いが湧いてくるのも当然のことです。

でも、それと同時に、こうも思うんです。

「あの経験があったからこそ、今の私がある」と。

苦しかったけど、その苦しみの中からしか見えなかった風景がある。
気づけなかったこと、見落としていた大切なこと。
それは、穏やかな人生では決して得られなかったものかもしれません。

 

経験は、意味づけで輝く

人生に「無駄な経験」はない
そんな言葉は、経験している最中にはピンとこないものです。

でも今、私はようやく思えるようになりました。
「この経験を無駄にしない」と、自分で決めることができるんだと。

だから私はこの文章を書いています。
あの時の涙も、悩みも、迷いも、誰かの心に届くなら。
ほんの少しでも、あなたの孤独を和らげることができたなら。
それが、私の人生に与えられた意味なのかもしれません。

 

まとめ

「なぜこの親のもとに生まれたのか?」
その答えは、人生の挫折と気づきの中に少しずつ見えてくるものだと思います。

 

 

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